2011年

2月

01日

Jazz

Bill Frisell来日してたみたいですね。 
29日は渋谷のタワレコでインストアライブだったとか。 
すぐ近くにいたのになあ。「これは後悔するな」と頭ではわかっていながら 
足を運べなかった。いやもう運ばなかったと言っても同じことだね。 



ものごとをタイプファイすることにあんまり意味はないのかもしれないけど 
例えばビルフリなら自分のやってることを"Jazz"と定義するんだろうな。 
メセニーもするだろう。それは彼らのバックグラウンドに生々しく含まれて 
いるだろうし、実際に彼ら自身も自分の事をそういった前提で理解してるように 
見える。時代背景もあるだろうしレコード批評の位置づけもそっち方向に収まる 
だろうと思う。 



Jazzそのものを語るつもりは毛頭ないのだけど。 
でもふと自分自身の今までの流れをふり返るとギターを持ち始めた最初の頃、 
10代の時にはRockやFolkから音楽というものにのめり込んでいったわけだけど 
物心ついた(?)19歳から20代の後半に至るまではどっぷりとJazzに浸かっていた。 
それはもうJazzの演奏家になることを想定して練習していたし、それ以外の音楽は 
好きでよく聴くことはしても自分のやることとは別だと思っていた。 


何でそう思ったのかわからない。でもとにかく盲目的にそう信じ込んでいたし 
それを疑ったこともなかった。その頃の自分の頭の中は牧歌的にいたってシンプル 
で実に平和だったのだと思う。それは幸せなことだったんだろう。 


「疑った事は無い」とさっき書いた。穏やかな性格の人なつこい犬みたいに 
本当に疑ったことはなかったのだけど、それはロジカルにという意味において 
だったと今では思う。何故なら自分のすきなRockのバンドの音源を聴くと 
いつも激しくコンプレックスを揺さぶられて不思議な喪失感を味わうからだ。 
その頃はそれが実に邪魔だった。自分の立ってる大地の足元から揺さぶられる 
ような感覚に陥るのだ。それで全てが無意味なような気がしてくる。 


そのRockのバンドが好きだと思えば思うほど自分の確立しようとしてる 
アイデンティティの地盤が緩んでくる。でも頭ではそんなこと気づいていない。 
「僕はジャズギタリストなんだから」と思ってる。 


なにしろそんなふうにゆらゆらと揺れていても僕の頭は已然牧歌的に平和で 
何故自分がそんなに揺れてるのか理解できていなかったのだから。 
これは音楽的思春期みたいなものだったのではないかと自分では思っている。 
自分が今の今、「何者」になろうとしているのかわからずにただひたすら 
思い込まれた「真理」に向かっている状態だったわけだ。 



一神教の国の子供達(主にキリスト教でしょうね)が思春期を迎えて大人になる 
過程で自分の宗教観を疑うときがくるでしょう? 疑わない子もいる。 
それはそれで大事なことだ。でも疑う子はその疑う度合いとか深さによって 
かなり決定的な価値基準を獲得することになると思う。それはひいてはその子の 
生き方そのものに反映されていくわけだね。そしてそこで獲得した価値基準は 
人生の中で挫折を繰り返すたびにその本質的な価値を問いただされて 
それぞれに変化していく。 


そんなふうにして一個人の自我みたいなものが形成されていくとしたら、 
僕が20代後半まで後生大事に抱えていた「Jazz」という価値基準は 
実際に僕が方向転換をするまで揺れて揺れて揺らし続けてもの凄く僕自身を 
振り回すことになった。 


「自分のすきなこと」「自分が自分でやるべきだと思うこと」をやっているのに 
どうしても足場が揺らいでしまう状態のまま煮え切らない数年間を特に大学卒業後 
の日本で過ごした。 


でも今思えばこれは思春期にグレているようなものだったんだと思う。 
いや「Jazz」のことを「グレてる」といってるわけじゃなくて。 
僕自身にとってのJazzの期間というのが大人の身体になりかけているのに 
子供の心のままでその変化についていけてない無意識の葛藤みたいな感じで、 
意識が認識してることと、無意識が勝手に反応してることの中間で行ったり来たり 
していたようなイメージなんだと思う。 



それで2005年にあるきっかけでブラジルに1年間ほど住むことにした。 
こういうものごとって自分で動いてどうにかすることではなくて全部人生の 
節目にセットされているようにも思う。それは一つの考え方であって、全く 
そうでないのかもしれない。 



でもとにかくブラジルに行ってみて、サンパウロで知人に紹介された人に 
世話になりそこで知り合った人々と接しながら音楽を続けていく中で 
今まで内面で少しずつ形成されてきた自我のようなものは確実に肥大していく。 



つまり揺れに揺れていた大地がもうその骨組みを内部で崩壊させていて 
いつ崩れて沈下してもおかしくない状態にまで近づいてきたんだね。 

一年間ブラジルで過ごしてみてバンド活動や録音なんかもする中で 
「もっとこの土地を深めたい。もっとここで弾いていたい」 
と思った僕は荷物を無料で借りていた倉庫のような自分の部屋に全て残したまま 
ビザの更新の為に一時帰国するのだけど、もうこの時点で僕は次のステップに 
さしかかってしまった自分を発見することになる。 



それがこうして言葉にしてしまうと非常にばかばかしいくらいの発言になって 
しまうのだけど、たった一つのディレイペダルによってそれまでの僕の人生の 
流れは方向転換させられることになった。 


ディレイというのはエフェクターの一種なのだけど。 
どういった流れからというよりはごく自然にそれを楽器の一部として 
使うようになってしばらく時間が経過した頃に僕自身の自我は自分の居場所を 
見つけたかとでもいうようにぴったりとそこに収まってしまった。 



僕が長い事ギターでやってきた葛藤はギターではないものによって 
ある種の光がもたらされたわけだ。いや、こう書くと本当に陳腐ですね。 
「エフェクターと出会った!」みたいな書き方でね。きっとこれを読んでる方々 
は下條アトムさんの声で「タカスギケイがー、無意識の草原でー、ディレイペダル 
と出会ったー」と抑揚のない声で言ってるのが耳にこだましてることだろうと思う。 



でもまあ言うなればディレイというものは僕と僕のやってきたことと 
未知の「何か」を結ぶためのブリッジだったと言える。 
自分の意識はギター的な音像を求めてフラフラと彷徨っていたにも関わらず 
無意識はディレイ・・・あるいはディレイが象徴する「何か」によって 
統合に一歩近づいたような変化を見せる。その変化のダイナミズムによって 
結果的に僕は誰にともなく「Jazzやめます」宣言をする方向に向かっていく。 




これはいつもみんなに突っ込まれるのだけど 
「ジャズやめるって言ったのにまだ弾いてるじゃん」とかね。 
僕はその度に適当な返事をでっち上げていたわけだけど。 
「いや、ジャズクラブで弾くのをやめたんだよ」とか。 


でも本当はそういうことではないですよね。 
もっと言えば「やめる」とかいう表現でなくても良いのだと思う。 
でもとにかく例えばビルフリが「私はジャズギタリストです」と何のてらいも 
なく言えることが自分では言えなくなってしまったわけだから。 


だから自分で自分を「Jazz」と認識することを変更する、というのが 
正しい解釈なのかもしれない。Jazzこそがお母さんでありお父さんであったと 
自分では思う。そういう意味では自分の背景にはそういった要素はたくさん 
含まれているだろうと思う。でも今では自分で自分に「?」と名前をつけられない。 


「名前をつける」ことはある意味では何よりも一番大事であるとも言えることだ。 
Rockが好きだからって、じゃあ「Rockです」とも言えない。 
何故って「違う」ことが自分でわかってるから。性同一性障害の男性が自分の事を 
「女です」とも「男です」とも明言できないように。 


そんなわけで僕はそれらのどちらでもない音楽的オカマになったわけです。 
あれですよ。別に二者択一みたいなシンプルな構造の話ではないつもりです。 
今の自分は「名前のない状態」なのだと思っている。 



でも名前がないまま生きてはいけない。 
何しろ人間以外は名前を必要としない世界で生きてるわけだから。 
猫は自分の事を「猫」だとは思わないように。 
また彼らは「人間」の事を「人間」とも思わない。 


そういうことを思うのは人間だけだから「名前のない状態」というのは 
人間として非常に困った状態なんだね。非常に不完全な状態である。 



でも一時的になるのか一生このままなのか自分では知る由もないけれど 
「Jazz」を抜けたことで自分はそういう「無名」状態になり、 
ただ無意識はそのことを少なからず喜んでいるようだということがわかってきた。 



名前はないけど、少なくとも思春期のごたごたした時期よりずっと安定して 
地面に立つことが出来てるような実感がある。これが人より随分と遅れては 
いるけれども「音楽的20代」の始まりなんだろうなと思いながらこの2年くらい 
弾いています。30代半ばも過ぎてソロで弾くたびにそんなことを思う。 



偶然なのか無意識との符号なのか自分一人で弾くものはどれもカタチが 
はっきりと定まらないものが多い。でも今まで弾いてたものよりもずっと 
自分自身に対して説得力がある。いや、自分でそう思うだけです。 
ともかくこれからカタチになっていくのかしらん。 
カタチになった暁には「名前」を得ることができるのだろうか。 



それとも仏教の言う所の「空」みたいなものなのかもしれない。 
名前を求めて一生彷徨うことそのもの。結果的に揺れ続けることであって 
今は一時的な変態後のつかの間の休息なのかもしれない。 
それでも「おたまじゃくし」と「かえる」くらいの違いがある(!) 




「Jazz」について考えると僕はよくそんなことを思う。

 

 

先日のソロ演奏→http://www.youtube.com/watch?v=nrdgUToZqB8

*「映像1」にも同じ物がありますが。。

 

 

 

 


概要 | プライバシーポリシー | サイトマップ
©2010 kei takasugi(タカスギケイ)