12月と感情と記憶

ぐっすり眠った。

熱いコーヒーを淹れてほんの少しのグラノーラにヨーグルトをかけただけの

いつもの朝食。お腹なんてすいてないけどモノを噛む触感で少し目が覚める。

朝食は昼食のためのサウンドチェックみたいな感じだ。さて。

 

 

滅多にCDとか買わないけれど珍しく買ってしまったAlva Notoの古い音源を

聴きながらとうとうブログに手をつけることにする。ここしばらくの間、

全く何かを書き記したい気持ちにはなれなくて。これもあのtwitterやfacebook

のちょっとずつ言葉を放流させる日常によって無意識の言葉の蓄積解除をして

しまってるに違いないとか適当に思い込むことにする。

 

 

それにもうそろそろいい歳なので言葉に変換する率が下がってきたかもね。

肉を食べる率より野菜を食べる率が増えたのと比例してる?
いや、それは比例したとしても連動はしていない。むしろ質の問題かと。 

 

 

ともかく12月だ。今年はこれでもうおしまい。12ヶ月前には今年の抱負の

ようなものを密かに想った。想像以上にスピーディーな12ヶ月だったけれど

誓った抱負の30%も意識的には実現できなかった。しかしながら結果としては

予想以上にその抱負の達成率を実感するものとなった。いや、達成はしていない。

けれどそれを実現するだけの意志の強さを発揮はできなかったものの、無意識

の在りようとそれによって自分を依存させた環境による結果としてある程度の成果を

おさめたと言える。というわけで今年は痛み分け。相変わらず意志力/行動力の

数値は低いけれど、実現力/達成力の比率は上がってる。来年はこのあたりを

もう少し弄っていくんだろうな。人間、がむしゃらな行動だけが推進力じゃない。

けれど目に見えない行動ばかりしていても結局自分でも不思議な気持ちになる。

「なにもしないことの強さ」の理屈は頭では理解していてもやはり行動が少ないと

不安になったり。まあだからこそ「強さ」と言えるのか。

「なにもしないこと」というのは「本当になにもしないこと」とは違うから。

 

 

 

脳の中に海馬という部分がある。人の小指くらいの大きさかな。

ここでたぶん記憶というのが要/不要とに分類されて蓄積されていくのだけど

まあ言い換えれば新たな記憶が作られていくところなわけだけども、人の脳って

すごく良くできていてこちらが意識しなくても勝手にものごとを整合性を持って

繋ぎ合わせていくものなので、実際には起こっていないことや思っていないことを

あたかもそうであったかみたいに思い込ませることに長けている。

それで正常なんだけど、自分が歳を重ねるごとに騙されないようになってくる。

あるいは騙してる自分の脳(無意識)に気づいてしまうときがたまにある。

そもそも人の脳って完全に主観的にできてるから基本的に「思い込み」の激しい

存在なんだけど、じゃあそれに疑いを持って時に騙されてると知りながらそのまま

放置したり、時に騙されないように新たな仮説を逆にインプットして脳に刷り込

ませてみたり。

 

 

個人的にはこの「仮説の立て方」のことを「客観性」だと考えている。

この仮説がいく通りも挙げられることが他人を理解しようとするときの手助けに

なることが多いと勝手に「思い込んで」る(笑) 主観的に。

ただ、これをすると他人に対して全肯定の態度をとることになってしまう。

そればかりしていると「お前に意志はないのか?」と他者から疑われる。

自分を疑って他人ばかり肯定してると他人から疑われることもある。ふむ。

 

 

他人なんて理解できないものなので理解しようとするだけでしょう。

それには客観性という仮説を利用するとそれまで自分の主観でしか想像できなかった

ことを別のカタチに置き換えてイメージしやすくなる、ということだと思う。

つまり「置き換え作業」なんだね。それは作詞や作曲とも似ているし、あらゆる

アート活動と酷似したことに思える。もちろんそれを意識しながらにして全く作れない

人もいるし(僕のことだ)、そんなこと考えもせずにものすごく効果的な結果を出す人も

いるんだけど。

 

 

 

ところで直感というのはどこにその発言権があるんだったかしら?

脳だとしたら意識に近い地域の無意識の領域? だってあまりにも深層における無意識の

領域のものだとしたら認識力は下がるんじゃないかと想像するのだけれど。

認識力の低い直感なんて、説得力のない国家政策みたいなもので誰もついて来ないのでは?

そうではなくて直感というのは何かしら意識に対してうったえかけてくると認識される

ものだよね。でも意識上にはないのでそれは直感と呼ばれてる、と考えると無意識との

交通こそが直感の存在意義になるのだろか。所謂「神の声」だ。

てゆうか「直感の存在」という事自体がまず形而上の話であって、じゃあ直感の不在を証明

してみろと言われると困るんだな。「普段の僕の状態です」と答えるしかない。

これでは一神教の信者に向かって「じゃあ神の存在を証明してみろ」という議論と

変わりない。でもかといって「神とは仮説の思想化されたコンセプトです」なんて言おう

ものならジョンレノンみたいな目に合うかもしれない。僕のところに頻繁にやってくる

宗教勧誘の方には言えない。すごいんだから。集合住宅であるウチのアパートにおいて

僕のところだけにしか来ないんだ。僕が話を聴くからだけれども。

でも録音中にノックをするのはやめて欲しいな。話は聴くから。

 

 

 

で主観と客観の話にもどると「客観」というのはある種の形而上的な「仮説」なんだと。

主観はとりもなおさず個人個人の在りようなわけで。他人の痛みなんて絶対に理解できない

ということは「客観は存在しない」と言えることともつながってくる。それはそれでいい。

けれど客観を仮説として脳に刷り込ませていけるという人は僕はなかなか重層的な思考を

する人だなーと感心させられることになる。それによって他者との更なる交通が生じる。

これを「繋がる」と言うんだね。人は無意識的に既にそういうことを日常行っているけど

中には意識的に無意識を変革させながら生きてる人がちらほらいたりして、そういう人に

会うと自由だなーと感じる。いや、実際には自由じゃないだろうし、見かけほどには

自然体でもないんだろうけれど。でもあまりにもその逆にいるような立場の人々が辛そうに

してるのを見ると余計に目立ってしまう。良い悪いは別にして。

 

 

ちなみに上述した宗教勧誘の方々はそういうこちらからの話は全く聞く耳を持ってくれない。

自分が伝える為に持って来た話をとにかく相手の質問や意見を一切無視して話続けるので

こちらはコミュニケートしてる感じがしない。せっかくこちらが扉を開いているのに

勧誘の方々が開いてくれてない。それでは営業マンにはなれないだろう。

どちらかというとこちらが彼ら彼女らの悩みを聴いてあげてる立場なんじゃないかという

気分になってくる。でも立場は逆転してる。僕は自宅にいる暇な迷える子羊で、世界がどれだけ

おかしなことになっているかにまだ気づかない気の毒な存在。そんな僕に救いの説法をして

くれているのだ。

 

 

おそらく実際にその通りなんだろう。

僕は自宅にいる暇な子羊で未だ世界の変容に気づかずにのほほんと生きている。

 

 

でももし僕が危機感を持って忙しくいろんな場所を飛び回っていたら彼らの話し相手は

ひとり減ってしまう。それは彼らにとって幸福なことなのか。それともどちらでもいいこと?

彼らにとっての幸福はそこではないのかもしれない。でももしそこではないのだとしたら

僕一人の為に何も忙しい日常の合間を縫って説得しに来る必然性が下がってしまう。

やはりそれは彼らにとって幸福なことでなくてはいけない。必然性の為にも。

だって1人でも多くの他人を救いたいんでしょう。主観的に。なのに僕の部屋しかノック

しないのは僕が話を聴く姿勢を持ってるからだと推測してるのだけれど。

 

 

いや、もしそれが「神の声」という客観から発せられたものだとして、彼らがそれを

本当に理解しているのだとしたら? 

 

 

やはりいずれにしても僕が暇であることは認めざるをえない。

彼らは僕がこうして考察する時間をも惜しんで説法するために日々歩き回ってるのだ。

つまり価値の置き方が違ってる。価値の分母同士を同数にしないでシンプルな足し算/

引き算をしても答えは一定化しない。では一定化することは必要なのか?

答えはひとつでなくてはならないのか?

この点において一神教の方々は非常に強い。善し悪しに関わらず揺るがない。

 

 

そうなってくると主観を突き詰めた先に客観をも含んだ「信仰」があるのかなとか

想像したり。でも信仰と言えば僕なんて例えば音楽をこれほどまでに信仰してるので

その依存度たるや半端じゃない。ほとんど人生のいろんな可能性を棒に振ってこの

信仰活動に重点を置いた生活をしてる。それが僕にとってのバランスの取り方だから

仕方ないのだけど、幸い音楽は一神教的な存在ではないので対立しない。したがって

戦争に発展しない。戦争も音楽も広い意味ではビジネスだけれど、個人的な音楽は

存在しても個人的な戦争は存在しないと僕は信じてる。

今の世の中の戦争の本質というのは基本は宗教戦争でしょう?(北朝鮮はともかく)

 

 

他者を巻き込まないといけないのはビジネスだからだとも時に思う。

信者が増えれば。

ファンが増えれば。

投票数が多ければ。

多くの戦死者を出せば。

世界全体を救うをことを大義名分とするのか、個人個人が救われることに

着目するか、地球規模での総合生態系バランスなのか。

 

 

でもライブ告知したりライブに勧誘したりする様はどこかの一神教信者の

行動とさして変わりない。僕と彼らとは同じなんだ。

違うのは思想ではなく立場なんじゃないかなー。

 

 

だから相手の立場を客観的仮説として深く考慮できないことの方が

主義の違いを議論するより問題な気がする。誰が何を信じてたって良いはずだ。

思想や主義の違いで戦うのは現実的な生活における利害のようなものがもはや人々を

がんじがらめにしてるからでしょう。一緒に暮らしてるから。

で、結局のところ戦うかルール作りをし直すか、もしくはルール作りをし直す為に

戦うのか。誰かがどうにかしないといけないと国民全員が立上がったとして(そんなことは

まずないけれど)じゃあそれが果たして出来ることというのは突き詰めると一神教的対立を

生むようなことに近いんじゃないだろか。だって考え方をひとつに統一するのは難しい。

それでどちらか片方が強くなり過ぎると弱い側というのはテロリズムを起こす以外に

打開策はないんじゃないかと考え始めたり。

 

 

じゃあ同じような図式だからそのまま放置しておけと思うのか? むー。

 (シンプルな図式化でごめんなさい)

 

 

なかなか難しいですね。

もし人間の脳から海馬というものがなくなって、せいぜい5分程度の記憶しか

残らないとしたら・・・それはもはや人間ではなくなってしまうのか。

少なくとも今まで通りの社会生活は全く機能しなくなってしまう。

 

人間=アートであり、人間=信仰であり、人間=戦争なんだというのは過去の

データからわかってきたことかもしれない。

 

夢というのは実にいろんなことを経験させてくれてそれでいて時には真実味が

あって良いなと常々思っているのだけれど。非社会的に。極めて個人的に。

つまりある種の経験則は人に対してそれなりの効果がある。

未経験の人に何かを伝えるにはやはり置き換え作業が力を発揮する。

ストレート過ぎるメッセージでは時に言葉ばかりが肥大し過ぎるかもしれない。

その代わり表層的な共感を得やすいのかも。同時にその裏に多義的で複合的に様々な

意味合いを含めてしまうところが危険だとも思う。要は扱い方の問題だったり。

 

 

いやあ、話がだいぶそれた。

自分の今年の個人的なことを書こうと思って書き始めたのに。

でも去年との違いをはっきりと感じることのできた年となりました。

些細なことですけど。

 

 

 

今年は新たな試みとして畑崎大樹さんと無意識の交流を図り始めまして。

器の大きな人と特に何かを語り合うでもなくほとんど無言のまま、理想も主義も

ないところで目には見えないものについて互いの意識/無意識を利用しあうという

関係性を楽しんでみようと思います。khatという名前で不定期的にほとんど

無目的にやってます。"khat"という名前はもともと「金縛り」という言葉を検索

してたら出て来た言葉で。いや、金縛りという意味ではなく「それ」を噛み続ける

行為をやめると就寝中に金縛りに遭うことがある、という変な説明文がおかしくて。

だって「噛み続けると」じゃなくて「噛み続けるのをやめると」ってところが

脅迫的で良いじゃないですか。

 

 

1/30に京都Urbanguildで"khat"ライブします。これは勧誘。

京都在住のsonomiさんが素敵な絵を描いてくれた。

同じく京都の素晴らしいtime paintingアーティストである仙石彬人さんが

それをフライヤーに仕上げてくれて。とても嬉しい。緊張しつつ楽しみにしています。

 

 

それでは来年もよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 


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