また節目?

去年あたりからなんとなく感じていたことなのだけど

6月が終わって7月に切り替わるとなんだか流れがまた1つ
変わったんだなという不思議な手応えのようなものがあって。

今まではそんなこと全く思わなかったのだけど。
なぜ今頃になってそんなふうに感じるようになったのか。

6月の次はただの7月で、それが過ぎれば8月がきて
そのようにして1年の月日が連綿と経過していくように考えてた。
たぶん実際にそうなんだとは思うのだけど。

でも人の代謝が自分で気づかないうちに繰り返し行われているように
1年前の自分と今の自分ではやっぱり1年分違うように
特定の周期の中で自分自身に付随するものごともまた新陳代謝を
繰り返してるような感覚を覚えるようになって。

それがもっともっとくっきり感じられるようになってきて
その境目が6月と7月のあいだにあるような実感を持つようになった。
それは例えば日々のライブ活動の中に垣間見えたり
他者との関係性の中で動きを感じたり。

自分がどこへ向かってるのかは全然わからないけれど
とにかく代謝が生じてる感覚。自分のあずかり知らないところで
自分にまつわる何かが更新されていくような感覚。
その感覚について思いを巡らせていると深い思索というのはまあ
常に大事ではあるけれど、それよりも直感ということに意識がいく。

直感てなんなのかよくわかってないのだけど。
でもそれは何かを感じ取るひとつの基準なのかなあ。
無意識の声なのかもしれないとふと考えたりもする。無意識の声に
耳をすませて、それが聴こえてしまったとしたらそれはもはや
無意識の領域に属さないものに変化してしまうのかしら。

それともそもそも無意識の声は聴こえないものなのだろか。
でも「気づき」ってゆうのがある。
「気づき」ってゆうのは・・気づくまでは気づかない。
気づいてない間はある意味では無意識的領域に属してるとも言える。

人は恐らくその経年変化の中で気づきが増えていく生き物なんだと
僕は考えてる。まずその「変化」そのものに気づいて不安になったり
管理しようと考えたりするものなんだから。

でも「気づく」ことと「直感」とはまた少し違う側面がるような。
気づきが何かの結果として感じられる/知ることだとしたら
直感というのは何かの前段階に特定の理由もなく漠然とだけれど
確信的に感じることなんじゃないか。

無根拠であることを人は疑うかもしれない。
でも何かを確信的に信じられたりするのであればそれは因果関係を
抜きにしたところでの根拠なんだろうと想像する。

この際、結果そのものの重要性は置いておくとして、やっぱり大事
なのは「無根拠に何かを信じられること」なんだろう。
目には見えないこと、因果関係では説明のつかないこと。

そんな曖昧なことをどうやって信用できるんだろう?
理屈では説明がつかないようなことを心から信用するようなこと。
それはやっぱり自分を信用することなんじゃないだろか。

「直感を信じるということは自分を信じるということなのでは?」
というひとことがアタマの中をぐるぐるぐる。

でもですね、直感というのは行動と結びつけて考えることなのだと
僕は思う。直感を感じるだけではそれはまだ半分しか完了していない。
それを信じて行動に移せるかどうかということこそが「信じる」と
いうことの意味になってくるんじゃないかなあ。

ということは「信じること」=「行動すること」である・・と言える?


さて、「行動」についての考察。

「行動」ひとつとっても意志のちからで目的的に動くことと
無意識的に結果的に動いてしまっている行動というのがあると思う。
そしてそのどちらにも意味は生じる。

でも意味なんてどうだっていい。意味はいつもあとからついてくる
主張の足りない友人みたいなものだ。理論と一緒だ。
何もしないで無言でうしろをくっついてきてやっと一段落ついた頃に
ぼそっと本質的なひとことを喋るだけの存在。

目的的な行動には常にギャンブル的要素がつきまとう。
結果は見えないけれどでもある種の結果の為に動くこと。賭け。
無意識的な行動はどちらかというと川にぽっかりと浮いてる木の切れ端
につかまって漠然と少しずつ流されていくようなことに近い。

いや、目的的に行動をしていたって川の流れというものは常にそこに
存在していて無視はできない。流れの方向はある程度 意識しているべき
かなと思う。でも普通はその流れがどんな海に向かうのかなんて
知らされていない。泳いでも泳がなくても流れには逆らえない。
でも泳ぐことと泳がないことには違いが生じるのかも。

いや、生じることもあるし生じないこともあるのかも。
全てに当てはまる理屈というのはあり得ないものだから。
仮にあったとしたら、そんなものは本質的にさして重要じゃない。


ああ。また踊り場に出てしまった。
1Fと地下室の中間地点。
僕の考察は踊り場的思考なんだな。なかなか地下室には辿り着けない。


これが恐らく今年の6月に書く最後のブログ。
次に書くときは7月以降になる。そしたらそれはまた境界線の向こう側
になるのかも。わからない。わからない。

フシメ的セルフポートレイト?ケンソラくんのギターを抱えてるところをケンソラくんが撮影。
フシメ的セルフポートレイト?ケンソラくんのギターを抱えてるところをケンソラくんが撮影。

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コメント: 3
  • #1

    satomi__k (土曜日, 04 7月 2015 14:18)

     地下室。。。
     私は、直感が。。。地下室の一角。。。かなぁ~
     と、感じました。
     ここ一週間くらい。。。考えていた。。。今日の見解

     

  • #2

    satomi__k (水曜日, 08 7月 2015 23:11)

    幾度となく読み返した、「また節目」。。。興味深い文面
      。。。何気なく見ていた写真。。。

      。。。えっ!。。。ケンソラくんのギター。。。って

      。。。明日、Eggmanでお逢いできる?。。。わくわくしちゃう。。。あしたが、、、たのしみ。。。(@。@)

  • #3

    タカスギケイ (月曜日, 13 7月 2015 15:44)

    先日は遠くからライブに足を運んでくれてありがとう◎
    blogにもコメント感謝です^^
    あまり更新されないblogですけど、また時々チェックしてみてくださいね。