2011年

10月

01日

映画館にて

少し涼しくなってきた。 
暑いの苦手な僕としては良い感じ。夏生まれなのに。 


今日は久しぶりに何の予定もない日。 
長いつきあいの親友に勧められた映画を朝から観に行くべく早起きし 
コーヒーを淹れて小さな水筒に用意する。 



朝からバウスシアターに行く人なんてサボりの学生か僕くらいだと 
思っていたのに想像に反して年配の女性が多い。なるほど、まあ 
そんな時間帯ではあるな。タマゴと野菜のサンドイッチを買って少し 
早めに到着。始まるまでに席を確保しiPodで古いサンバのオムニバス 
音源を聴きながらカバキーニョの音と共にこっそり食事。 
どうして水筒に入れたコーヒーって香りが逃げちゃうんだろう? 


でも古いサンバの音源というのは誰が誰なのか全く知らないのだけど 
なんだかとても実態感のある匂いや雰囲気を運んできてくれる。 
聴いたその瞬間にブラジルのとある無名なバールに一人で座ってるような 
気持ちになれる。最初にその種の音楽を聴いたときはなんとなく地域密着型 
というか、日本で言えば居酒屋で歌謡曲や演歌が流れてるような感じで 
とても自分の趣味と合わなくて気になったものだけど、今では自分を 
その無名なバールに引き戻してくれる手段の1つになっている。 



さて。ともかく映画が定刻どおりにスタートした。 
何の予備知識もなく行ったのだけど、とにかく友人のおすすめだった。 
できれば劇場で見て欲しいということだったし、今日がその会場での最終日 
だったこともあって来てみたわけだ。 



"Tree of Life"という作品。巷では宣伝もちゃんとされてたみたいですね。 
僕はTVも持ってないし、映画の宣伝なんてまず見ないので全く知らなかった。 



始まってみてそこにドローンのように存在するある種の宗教性を思った。 
そのキリスト教的葛藤がコードのルートでありトニックなんだと思った。 
こういう感覚って日本ではあまり浸透してないんじゃないのかな? 
日本の普通の感覚からしたらもっとパーソナルでノスタルジックな感覚で 
観てしまうんじゃないのかなと思えた。ここでいう「普通」というのは 
多分に語弊を含んだ言い方だけれど、キリスト教やイスラム教やユダヤ教 
でさえこの国に入ってきたら「日本風」な解釈に変化してしまうのではないかと 
常日頃から疑ってるフシがあるので。 


仏教もそうだし。「戒を守る」という感覚を保ち続けにくい環境が日本の特徴 
だと僕は思う。結局そこに疑問を持ち、どうにかして自分なりの戒律を構築し 
守り続けようとする人はマラソンをしたり山登りをしたり自転車をしたりと 
そういった方向に向く傾向があるように見受けられる。 


意識的に社会から隔離されようとするとそうなってくるんだろう。 
もちろん引き蘢りもある意味では同じ事なのかもしれない。でも能動的に「戒律」 
を守ろうとする人は能動的に動くことを自分に強いることが多い。 
引き蘢るとむしろ「何もしないことを強いる」ような結果になり、それは結局 
「戒」ではなくなってくる。 


いずれにしてもマラソンや自転車をする人が「宗教的」という意味じゃないです。 
ただ自分自身と向き合う行為というものの在り方の傾向についての印象。 
たとえそれが唯一の「逃げ道」だったとしても。 




映画の話と関係ないですね。失礼。 




映画の中では長男の視点のようなものを借りて繰り返し問い続けられる。 
それは時には長男だけではないみたいな感じだけどともかく。 
そこには本来なら盲目的に信じられるべき信仰と、明らかな懐疑と、救済を求める 
切実なあがきと、それらの思いを現実の自分の置かれた環境に照合して答えを 
探そうとする出口のない問いかけがある。 



僕は映画の出来の善し悪しを発言するほど映画そのもののことはわからない 
けれど、まず個人的にそういった総合的な葛藤にとても共感を持てた。 



自分の信仰を疑い、同時にすがろうとする。 
そこには明らかに目には見えない戦いがあって、彼は人生に苦しみながら同時に 
宗教によってより深い矛盾の受容を迫られている。疑うことがさらなる苦しみを 
生んだりする。疑わなければもっと幸せなのかもしれない。 



それは思春期のバランスの崩れた自我の葛藤と両親の存在の巨大さと身内を亡くす 
喪失感によって少し誇張気味に表現されるある種のテーマの1つだ。 
そのテーマにカウンターメロディーのように差し込まれる地球と宇宙の「存在」を 
表現するある種の美意識。 



美意識はすべて「イメージ」で表現されていた。それは現実的な建築物の風景から 
建物内のあらゆる角度からの描写から、また自然の風景や自然模写的風景の全てに 
ちりばめられた「象徴性」によって。 
それら全ては総合的にマクロとして表現されていながら同時にミクロのどの部分を 
切り取っても同じことだというニュアンスが含まれているようにも見える。 




でもとにかく、そこには安易な「救い」や安易な「神による解決」なんかは意識的に 
排除されている。強いていうなら「葛藤そのものが宗教である」ような一面を浮かび 
上がらせてフォーカスしてるようにも思える。 


あるいは特に「宗教」ということを強調したかったわけでもないのかもしれない。 
でも明らかにそこには救済というテーマがあるし、それはキリスト教の家に生まれた 
者が内在的に持つ葛藤を含めて日常や人生を表現してる。 



宗教って言うと人はまず一神教と多神教で分けてしまうし、宗教団体的な活動も 
想像してしまうのだけど、シンプルに「葛藤すること」という基本軸を設定すると 
(つまりそれは全ての人間がすることなのだけど)「信仰」ということの本質が 
少しは見えてくるような気がする。わからないけれど。 



それは例えば戒律を守り続けることがもっとも単純に向き合える1つの手段であり、 
また、死ぬまでやり続けるには非常に難しい事柄だったりするんだろうな。 
だから日本の坊さんの多くは戒律を守らない。結婚式や葬式と一緒で儀礼/儀式的に 
形式化されてるだけ。それは僧侶という役を演じているだけで本質とは無関係だと 
僕は思う。でもそんな役割の人が社会に少しはいないと社会というシステムが 
機能障害を起こすので古くに組み込まれた役柄設定なんだろう。 
「父親」というのもそうかもしれない。一夫一妻制がなかった頃は「父」という 
概念の役割がきっと全く違っただろう。 


いずれにしても社会においてはそんな形式化された本質とは無関係な存在さえ 
人々は依存して生きてるし、その依存自体は少しでも苦しまずに生きていく上で 
少しは機能しているようにも思えるので、むしろそれは「役割を演じること」の 
本質的重要性なんだろうと思う。人は生きる為にどんなものにでも依存できると 
僕は思う。それは何かの「代理」なのかも。 




話がそれたけど、「葛藤」というのを基本軸に捉えて生きてくことを考えると 
それが一神教だろうと多神教だろうと、プロテスタントだろうとカトリックだろうと 
真言宗だろうと日蓮宗だろうと華厳宗だろうと個人的な本質とそれによって行える 
行動は似たようなものになってくるんじゃないかな。 


それは本来、個々人が各々の中で行うことであって、でも実際にそれをやり遂げる 
ことは非常に難しいので集団的なアクティビティーが必要となったのかもしれない。 
でも人は集団になれば「派閥」が生じる。個人は二人以上が集まれば社会になる。 


あるいは順番は逆かもしれない。 
派閥が発生したのでその集団性はより集団的特性を獲得し、それによって 
ビジネス的にも政治的にも大きく力を持つようになっていったのかも。 


宗教団体的なプロパガンダやそういった政治的なものも含む利害のことは さておき、

個人が自分自身とまっすぐに向き合ったときに時々垣間見えてしまう「無」 
について「絶望」をプリセットで内包してることに対する「無意識的な手段」として 
表出してきた概念なんじゃないかなと僕は宗教の本質について想像するのだけど。 



つまり「絶望」は生を授かると同時にデフォルトでついてくるのだと思う。 
それは人間だけがそうなんじゃないかと思える。そりゃあ多少の例外はあるのかも 
しれない。鬱気質のネコもいたりするのかも。でも人間は言葉というものを獲得して 
しまったので結局「概念」も獲得するに至ったわけだ。 
それでいろんなことに意味を見出すようになってしまったんだね。 



んんんん、いいやそうじゃないのかもしれないな。 
「絶望」という感覚はひょっとしたら概念ではないのかもしれない。 
だとしたら人間だけに与えられた感覚ではないのかもしれないとも思う。 



でもその他の動物達はそういった大いなる絶望に対してもっと寛容的だと思う。 
それは受容するしないとかじゃなくて、そこに意味や価値を見出してないだけという 
理由なのかも。つまりそこに意味や価値があることを見出してしまった者が絶望的な 
要素も見出してるだけなのかもしれないな。言い方を変えると「無」を絶望的に 
感じる生き物が人間ということかしら。そうだとしたらやはり「絶望」は概念だ。 
ここでいうところの「無」という概念が絶望感という感覚を象徴してるだけなのか。 





ただ、「無」だって言葉で表しているうちは「概念」に過ぎない。 
だから映画ではイメージを使用したし、そこに説明を必要とはしなかった。 
その代わり「問いかけ=葛藤」を持ち込んだ。 



もっとも、映像として美意識的に表現されていたものは「絶望」や「無」なんか 
ではなくその真逆の事柄だった。でもそれは「希望」そのものではなかった。 
だから「絶望」と「希望」の二律背反性はここでは排除された。 
そうだとしたら「有」を表現してたのかな。「在る」こと。 
でもそれは「無い」をも同時に意味してる。だからそこで「絶望」がテーマに 
なってくるんだね。「在る」ことはそれが永久には続かないことをも意味する。 
だから「無くなる」ことも内包してる。そこに本質的には意味はない。 



だから生きた人間が葛藤して見出そうとするのは漠然とした生きることの意味とか 
何故生まれてきたのかという一般論的な事柄ではなくて、「自分が」「自分は」 
という限定性の中で初めてそれらの意味が生じるのだと思う。 


個人個人が宿命的に抱え込んだ命題なんだろう。 
そこに焦点を当てて初めて「宗教性」が本質的に意味を持つと思う。 


「自分」をつきつめていけば「他人」にも行きつくし、その逆もまた然りだ。 
でもそれを極限まで細分化していったのがキリスト教をはじめとした個人主義的 
傾向だったし、仏教なんかはその対極みたいに統合して「無」とか「空」とかに 
還元したみたいに見える。歴史が古いのは仏教かもしれないけど、キリスト教が 
その概念を生んで自然科学が発達したことを考えるとどちらも人が生んで時代や 
歴史ごと揺さぶり続ける存在ではある。 

キリスト教は「精神と物質」を先ず2分化した。基本的に0と1みたいに細分化する 
傾向があると思う。対立概念ではないけど仏教なんかでは全て0みたいな感じの 
イメージが僕はする。「無」とか「空」というのは。 



結果や傾向は全く違うけど、出発点は同じように思うんだけどな。 
救済を求めていたのではないかと。 
そういった人生のデフォルト的葛藤を美醜を問わないことと知りつつも、 
美しいものとして表現した映画のように感じた。主にキリスト教的視点から。 


だからこそ象徴としてのドアがそこに配置されたんだろう。 
そのドアは入り口であり出口だ。優れてドア的象徴性を備えてる。 
特にそこにドア以外に何も存在しない時は。 


そう思うとドラえもんの「どこでもドア」という概念は凄いですね。 




これがこの作品についての今年の感想文。 
もう一回観たらまた違った印象を持つのかもしれないけど。 

 

 

 

でも主に宗教的側面から書いてしまったけれど、タイトルが示しているように

人の営みもその永続的な繋がりもまた自然の一部であることを表しているように

感じられて興味深く観て来ました。好きな作品だったよ。



(それにしても多くの偏りと説明不足な内容になったなあ。。。) 

 

 

 

 

 


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