2011年

11月

20日

motion after-effect

絵:セキネコ
絵:セキネコ



珍しく休みの日。 


夕方に降った通り雨もすぐに去り、外は車やバイクが乾いた音をたてて 
道を横切っていく。すごく小さい音でプッチーニのオペラを聴く。 
ベタと言えばベタだけど昔からのリラックスするために流す定番の一つだ。 


6年前にサンパウロで一緒に活動をしていた矢崎愛/草村芳哉夫妻と再会し 
東京と新潟で演奏した。同じくブラジルから来ていたビブラフォンのアンドレは 
僕が大学時代に彼も同じタイミングで同じ学校にいたようだ。まさか同期とはね。 
言われてみればどこかで見かけたような気もする。気のせいかもだけど。 



演奏はたくさんの温かいお客さん達のおかげで無事終了した。 
矢崎愛達の演奏も申し分なかった。才能ある素晴らしい演奏家達だ。 


しかしながら問題は僕の方にあった。 
いや、終わったライブについて「あれは失敗だった」みたいなことを 
言うつもりはない。なんというか、自分の現在の立ち位置を再確認する 
時間になったと痛感した。 


前にも書いたけど6年前の僕は今とは違った感覚だった。いや僕に限らず 
みんな6年前と今が全く同じな人なんていない。ただ、僕に関しては 
随分とその頃の自分自身と乖離してしまったように感じている。 


あまり書き過ぎると言い訳みたいになってしまうけれど、簡単に言うともう 
適応できなくなっていた。2回くらいのライブではもう取り戻せなかった。 
それはそうなんだけれど、まだ今の段階では取り戻すことを恐れているように 
自分では思えた。だから実際に蓋が開いてライブが始まるまでわからなかった 
のだけど、思ったよりも取り戻せなくてライブでは随分と歯痒い思いをした。 


それと同時に簡単に戻らない自分にちょっと安心もした。 
自分のしてきたことを正当化したいからじゃなくて、なんていうんだろ、 
上述した「恐れ」の感覚があったからかな。 
時間をかけて丁寧に放棄してきたものを大事に扱えた気がして、演奏で 
もっと効果的で必然的な存在でありたかったことを別にすれば 
文字通り自分の今の立ち位置を確認/痛感できた、というのが大きい。 


そんな揺れ続けてる僕なのに広い心で温かく受け入れてくれて文句一つ言わずに 
一緒に演奏してくれた矢崎愛には大感謝だ。次回があるのだとしたら、是非また 
共演したい。もっとマシな仕事ができればといつも思っているけれど。 



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認識としては、自分が1人でやってる音楽というのは僕自身にとっての 
箱庭療法みたいなことで、あるいは「夢」の置き換え作業みたいなことで 
自分でも理解してないことが出て来てしまうのがこの活動の主な特徴なんだと 
最近感じるようになってきた。 


これは家で1人でやっても良いことなんだけど(実際やるけど)、ライブという 
環境は一つの特殊な環境なんだね。そこにはお客さんという他人の目/耳が 
ある。「関係性」というものが生じる中でその行為を行うことに大きな意味が 
見出せるように思う。 


つまり僕はカウンセラーの前で箱庭を作るクライアントになれるわけだ。 
おかしな順番だ、と人は思うかもしれない。僕がお金をとってお客さん達は 
鑑賞しに来るというのに、僕がクライアントというのはね。 

でもそれは一つの解釈であって、社会的には演奏家とオーディエンスという 
関係性が保たれてる。ホストはこちらでゲストは向こうだ。 
にもかかわらず、自分のやってる種類のことというのはそういった逆転された 
関係性をも内包することだと自分では捉えている部分もあると言いたかった。 


作品には鑑賞した人のぶんだけ解釈が存在する。 
でも作り手としては鑑賞してくれる人が存在するだけでいいんだ。 
彼らの解釈は嬉しいことだけど存在そのものに比べて全く別の価値を持つ。 
作り手は理解者を求めてはいても解釈を求めてるわけではないから。 
もちろん理解者達にはそれぞれの解釈があるからこそ理解者としてそこに 
存在していてくれるわけだけれども。 


クライアントにとって必要なのはカウンセラーが真剣に耳を傾けて話を聞いて 
くれることなんだと思う。彼らはカウンセラーの個人的な意見なんてあまり 
必要としていないんだ。きちんと向き合って話を聞いてくれるだけでその役割は 
既に遂行されている。 


だから僕は実はあまりお客さんに感想を求めてない。感想を頂くのは嬉しい 
けれど。僕からお客さんに何か尋ねるときは僕の音量が小さ過ぎたか?とか 
そういった物理的な部分のみ。聴こえる音量かそうでないかだけなんだね。 



偉そうに語るものでもないけれど、そういった種類の演奏というのは 
自己治癒効果を持つものだから、どうしても自分でコントロールしきれない 
ものになる。夢と同じだ。夢の内容をコントロールできないでしょう? 
でもライブで自分で演奏するとなればある程度は意識的なものになる。 
けれども「箱庭」を作るくらいそこには無意識的な要素が自分の意図とは 
裏腹に生じることになる。 


自分で何故そんな行動をしたのかわからないことが演奏中にいっぱい起こる。 
でもそれはいつもじゃない。適度に緊張していながらも適度にリラックスできてる 
時であったり、お客さんの雰囲気だったり、お店だったりする。 
その環境全てに影響されてるといって過言ではないと思う。 
思えば、店というのは大きな存在だ。店=ハコと呼ぶだけあって、自分も含めて 
そこに存在するお客さんと店主と椅子やテーブルや酒や料理の匂いや様々な装飾品 
やそれら全てが箱庭の一部として全体を形成してる。「ハコ庭」なんだね。 


だから個人でやるライブハウスの店主というのは毎晩のように箱庭を作る 
ようなものなんではないだろか。もちろん彼/彼女が意図的に作るだけでは 
物事は動かない。だからこそその晩がどんなふうになるのかはコントロール 
できないわけで、そこに無意識が滲み出る領域が出来上がるんじゃないかと。 


別に個人である必要もないわけだけど、個人の方がその捉え方がわかり易い 
かもしれないなとは思う。 


箱庭と言えば、自分のエフェクターボードを見ていても「これは箱庭的な 
要素もあるんじゃないだろか」と思ったりもした。単なるこじつけかもしれ 
ないし、或いはあたってる部分もあるのかもしれない。 


自分のことは棚に上げて言うけれど、他人のエフェクターボードって 
ギタリストはみんな興味深いものなんだ。そしてそれらは本当に千差万別に 
その人らしさが滲み出てる。ギタリストのボードの中ってその人そのものだ。 
まあアンプに直みたいな格好いい人も中にはいるし、ボードを組む人ばかり 
でもないのでこれはちょっと極論。面白いから書いただけ。無責任。 


でもユングの家が彼自身のある種の曼荼羅であったことを考えるとそういった 
ことは全てに見出せると思う。「神は細部に宿る」だね。 
言葉の意味が違うか(^_^; 



音楽の世界で「病」という言葉を使うと抵抗を感じる人もいると思う。 
医療の世界で「作品」という言葉を使うと不適切と感じる人もたぶん。 
日本で「神」という言葉を使うと胡散臭い人と思われたり。 


でも割と自分では全て同じ領域の事として言葉を選んでるような気がしてる。 
それは意識下のことだけれど。無意識は時としてもっと不思議なものを 
投げ込んでくる。こうして書くブログ的なものはいつも意識的に過ぎる傾向 
があるかもしれない。何かを求めて書くのだけど何も顕現しないことが多い。 


きっとそれはブログだからかな? 
誰かに宛てて書けばそこには顕現するかもしれない。 
昔はよく手紙を書いた。退屈な授業中とかに。でもそれらの手紙は誰にも 
送られるものではなかった。でも手紙は距離感が違って無意識にぽろぽろと 
自分がこぼれてくることが多かったように思う。 



手紙っていいですよね。最近のポストは主食を食べない僕みたい。 

 

 

 

 

 


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